uchuunのブログ

覚醒の炎と本当の自分~

本当の自分に気づくきっかけを与えてくれた本の紹介③

ラスハリス

・幸福とは単に気持ちよくなることではない。ACTでは幸福になる方法を教える代わりに、抵抗や回避、現在の瞬間に生きていないなどのマイナス行動を弱める手段を教える。

・ACTの目的は人生で不可避である苦痛に効果的に対処するための手助けをすることだ。

・あまり一般的ではない「幸福」とは「豊かな、満ち足りた、意味ある人生」だ。

・人生は痛みを伴うというのが現実だ。それから逃れる方法はない。こうした痛みを避けることはできないが、それをコントロールするうまいやり方がある。痛みのために居場所をつくってやる、その衝撃を和らげる、たとえ痛みがあっても生きるに値する人生を作り上げるなどだ。

・健康な人間の正常な思考プロセスは、人間を精神的苦痛に導く。あなたに欠陥があるわけではない。

・問題が何であろうと、それは不快な思考や感情をもたらす。ACTでは「解決しようという努力が問題を作り出している」という。解決の試みが問題を呼ぶ。

・「脱フュージョン」思考はただの言葉の羅列だ。思考はあくまで言葉でしかない。思考が真実かそうではないかは重視しない。それが助けになるかどうかに重きを置く。

フュージョンの目的は思考を取り除くことではなく、それを端に言葉の羅列として、あるがままにみることであり、それに抵抗することなくあるがままにしておくことなのだ。

・どんなに辛くて、残酷で、愚かで、悪意に満ち、批判的で恐ろしげで、あるいはまったく分けのわからないものであっても、私たちは思考が沸き起こるのをどうすることもできない。だが、それに真剣に取り合う必要もないのだ。

ACTでは不快な思考や感情を好きになることではない。ただそれらと格闘することをやめるだけだ。

追い払いたいと考えるのはある意味当然といえる。

・思考はラジオのようなものだ。常にバックグラウンドミュージックを奏でている。やっている番組のほとんどは「破滅と憂鬱ショー」みたいなものだ。24時間ひっきりなしにネガティブな物語を流している。ごくたまに役に立つことや明るいニュースも伝えるが、それはめったにない。まずいことに、このラジオはスイッチが切れない。禅の指導者さえもそれは不可能だ。私たちにはそれを止める力はない。それどころか止めようとすればするほど音は大きくなる。

しかしそこには別のやり方がある。ラジオを大きな音で鳴らしていながら、自分がやっていることに没入していたためまったく聞いていなかったという経験はないだろうか、ラジオの音は聞こえていてもまったく注意を向けていない状態だ。脱フュージョンの目的は、思考においてこれと同じ状態をつくることだ。

現在していることに集中しながら、生まれてくる思考を「やり過ごす」テクニックだ。

このテクニックを練習すると、思考する自己と観察する自己の区別に気づく(観察する自己が呼吸に集中している間、思考する自己は後ろでおしゃべりしている)

・私たちは激怒したり恐怖でパニックになっているときでさえ、立ち上がったり座ったり、口を閉じたり、水を飲んだり、電話にでたり、トイレにいったり頭をかいたりなどの行動ができる。怒りや恐れの感情をとめることはできないが、行動は自分で決めれるのだ。

・苦痛の感情はそれらと戦えば戦うほど、多くの問題が引き起こされる。

なぜそうなるのだろうか?自分の心の後ろにスイッチがあると想像してみよう。これを「悪あがきのスイッチ」と呼ぶことにする。このスイッチがオンの時は、私たちはあらゆる肉体的、精神的苦痛と戦う。それが何であろうと問題と見なし、必死で追い払うか避けようとする。悪あがきのスイッチがオンであれば、感情をまったく受け入れがたい。私たちは不安に対して不安に感じる。不安に対して怒りを感じる。不安に対して罪悪感をもつかもしれない。これらの感情が混じりあうこともある。こうした二次的な感情に共通しているのは、それらが不快で救いようがなく、私たちのエネルギーと活力を奪ってしまうことだ。そして私たちは腹をたて、不安を感じ、落ち込んでしまう。

では、悪あがきのスイッチがオフの場合は。この場合どんな感情が起こっても、どんなに不快でも、私たちは戦わない。したがって、不安が起こっても問題にはならない。それは確かに不快だし、私たちがそれを好きになることもないが、極端に不安というわけでもない。感情と戦うことにエネルギーと時間を費やさないということだ。

悪あがきスイッチがオフのときをACTでは「きれいな不快感」とよぶ。きれいな不快感を避ける方法はない。人生につきものの感覚だ。これに抵抗しようとすると、不快のレベルはたちまち上昇する。そして私たちが「汚い不快感」と呼ぶものが現れる。

・脱フュージョンの方法の目的は判断を解き放つことで、止めることではない。思考する自己は判断のエキスパートであり、判断をしなくなることなど絶対にない。しかしあなたは徐々に、判断にとらわれることなくそれを解き放つことができるようになっていく。

フュージョンの方法は感情についての役に立たない思考に対処するときの助けになる。心が「この不安は最悪だ」といったとしよう。あなたは自分に対して「自分は「この不安は最悪だ」という思考を持っている」ということができる。

・「拡張」の目的は感情を外にだすのではなく、そのためにスペースをあけてやる。争ったり避けたりしてもスペースはできない。スペースを作ってやれるのは拡張のテクニックだけだ。「広大な海」「広がる空」と聞いて、あなたは何を思い浮かべるだろうか?多くの人が広々とした空間を想像するにちがいない。これこそがACTniおける拡張の目的だ。感情を開放して自由にうごけるようにしてやる。このテクニックは感情を変えることではなく、それを受け入れることだ。感情と戦うことをやめれば、感情が変わろうと変わるまいと、あなたが受ける影響はずっとちいさくなる。

・次が何をしたらいいか、感情を受けいれたら、人生で大事な領域を選び、自分の価値観に沿った効果的な行動を起こそう。行動が重要だ。思考や感情と違い、行動はかなりの程度コントロールできる。自分の中の最も不快価値に従って行動することは満足と充実をもたらす。

ACTでは容認が何より優先する。まず感情の居場所を作り、それをあるがままにさせる。そして自分に問う。「今本当に意味があり大切なことが何かできないだろうか?」これは「どうすれば気分がよくなるだろう?」という問いとはまったく違う。真の目的は、意味ある行動をすることなのだ。それは長期的に見れば人生を充実させる。

・私たちはしばしば衝動との戦いに引き込まれる。それつえ、私たちはいつも衝動に抵抗する方法を話し合う。だがACTでは衝動に抵抗しない、争うことはしない。ただスペースを空けてやるだけだ。感情のためにスペースを空け、十分な場所と時間を与えてそのエネルギーを使い果たすようにさせる。つまり、拡張を行うのだ。

・ACTは瞑想ではない悟りへの道ではない。「苦痛を感じない存在」の探求は必ず失敗する運命にある。すべての人生に苦痛はつきものという基本的な現実を避ければ避けるほど、私たちは痛みと戦う羽目になり、さらなる苦痛を作り出してしまう。一方ACTでは、生きることにつきものの痛みを受け入れながら、豊かで満ち足りた、意味ある人生を創るための助けになることを目的としている。自分の価値に従って行動することにより意味ある人生を想像する、科学に基づいたプログラムなのだ。

・自尊心は必要ない。あなたがすべきことは自分の価値とつながり、それに従って行動することだけだ。豊かで満ち足りた、意味ある人生のためには、自尊心はまるで必要ないのだ。自分を証明しようとしないことだ。自分が「優れた人間」だと考えるのをやめよう。思考する自己がどんな評価を突きつけようと、それがポジティブであろうとネガティブであろうと、それら(単なる言葉)をありのままに受け入れ、解き放とう。いつも自尊心を保つ努力を続けていると、自分の価値から遠ざけられてしまう。「私はダメだ」という物語は繰り返し起こる。これとの戦いに残りの人生を費やしたいだろうか?こんな努力をしなくても充実した人生が送れるのに。

あなたが自尊心の戦いから抜け出た場合、何が起こるかというと、「自分というものが思考や記憶でないとしたら、私とはいったい何なんだ?」と質問するだろう。

・観察する自己はいかなる方法によっても進歩することはない。それは常にそこにあり、切れ目なく完全に働いている。私たちはそれにアクセスすればよいだけだ。

観察する自己は傷つけられることもない。体が病気やカレイ、けがなどで衰えると観察する自己はそれについて気づく、痛みが起これば痛みにも気づく。その結果悪い考えや記憶が起これば、観察する自己はそれにも気づく。だが体のダメージや苦痛な感情、そして悪い思考や記憶は、あなたの中に存在する。それらを観察している部分を傷つけることはできないのだ。

・観察する自己は「もの」ではない。物質ではなく、物理的特性もない。計測することも定量化することもできなければ、抽出して実験することもできない。直接体験するしか、その存在を確かめる方法はない。

観察する自己を強化する方法はない。観察する自己は完璧なのだ。

・「私が自分の心でないとしたら、私は一体何なんだ?」この単純な答えはこうだ。「あなた」は思考する自己と肉体、そして観察する自己の複合体だ。それらはすべて「あなた」の異なる側面なのだ。だが、観察する自己は、それらの中で唯一不変の存在だ。

あなたが思考につかまると、観察する自己は消え失せたように見える。だがそれは幻想だ。観察する自己は常にそこにあり、あなたが望めばいつでもアクセスできる。心の性質として、あなたは思考する自己の物語に何度でも囚われ、それは死ぬまで続く。しかし、囚われたことに気づいたときにすぐに一歩下がり、物語を観察し、その呪縛から自由になることもできる。

自分の望む人生を創造するために行動を起こすと、恐怖や不快な思考、感情が起こってくるのはやむを得ない。しかし、脱フュージョンや拡張、接続をつかうことにより、こうした障害の乗り越え方はわかってくる。そして観察する自己がいつもあなたを助けるために待機していることを知っているのも心強いことではないだろうか?それは自分の内部に、あなたがもっと困難な思考や感情、記憶を観察できる避難所を持つようなものだ。そこから観察しているのは、それらの思考、感情などが決して傷つけることのできない自己なのだ。

・日々の生活において私たちは観察する自己を垣間見るくらいがせいぜいである。なぜならそれは常に流れる思考に覆い隠されてしまうからだ。これは空のようなもので、時には雲に完全に覆い隠される。しかしたとえ見えなくても、空がそこにあることを私たちは知っている。そして雲より上の高見に行けばいつも見ることができる。

・観察する自己を、空のような存在になることを考えてもよい。その場合、思考と感情は変化し続ける天候のようなものである。どんなに天候が変わろうと、凶暴な風だろうと、風や雨や霧が荒れ狂っていようと。空はそれを常に包み込み、それらに傷つけられることもない。地上を破壊しつくす台風や津波も、空を傷つけ害を為すことはできないのだ。そして、時間の経過とともに変化する天候にお構いなく、空は純粋で透き通っている。

 

 

 

この本に書いてある脱フュージョンとは、目覚め、アセンションととらえるとわかりやすいです。